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誰もが知る絵画界一の奇才!パブロ・ピカソについて、代名詞であるキュビスム、魅力的な人間性、あの代表作を用いてわかりやすく解説!

引用:パブロ・ピカソ - Wikipedia
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こんにちは!皿(sara)です☺️

今回は、近代絵画が産んだ奇才、パブロ・ピカソについて紹介します。

本名はものすごく長いことで有名で、それが以下↓

パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

引用:パブロ・ピカソ – Wikipedia

諸説あるらしいです。そして本人も全部覚えていなかったそう。芸人さんが長い名前に対して「ピカソか!」とツッコミを入れているのを見たことがあります(笑)

「ピカソ」の名前は絵画を全く知らない人でも挙げられるほど、美術史に燦然と輝いています。そんな、美術界の重鎮パブロ・ピカソについて代表作も合わせながらわかりやすく紹介していきますので、この機会にぜひピカソに詳しくなりましょう!

目次

キュビスムの大成者

パブロ・ピカソ(1881 – 1973)、スペイン出身。絵画を幾何学的、立方体的(キューブ)に表現した「キュビスム」を代表する画家。「ピカソと言えばキュビスム」ですが、実はキュビスムはピカソ1人から始まったわけではありません。

キュビスムは本来絵の被写体の見えていない死角となっている部分をも1枚の絵の中に描き出すことができる画法ですが、この表現方法はキュビスムが初めてではありません。その草分けは、近代美術の父と言われるポール・セザンヌ(1839 – 1906)です。セザンヌは、1枚の絵の中に複数の視点から見た様子を描き出すという、当時全く新しい画法を作り出し、以降の美術界に多大な影響を与えました。(セザンヌ代表作:『リンゴとオレンジ』↓)

引用:ポール・セザンヌの作品一覧 – Wikipedia

ピカソはセザンヌからもたらされたこの斬新な表現方法をさらに発展させ、旧来の画法を打ち破りました。滑らかに書くべき肌をカクカクさせてみたり、本来ありえない顔のパーツの配置をさせたり…。ついに完成した絵を発表したピカソですが、斬新過ぎたため画家仲間から散々な言われようだったらしく、発表した当初はしばらくが絵が描けなくなったそうです。

しかしそんな中でも、ピカソの絵に理解を示してくれる存在がいました。その内の1人がジョルジュ・ブラックという画家だったのですが、このブラックと呼ばれる画家の風景画が「まるで立方体(キューブ)だ」と言われたことで、「キュビスム」という言葉が生まれたのです。

現代美術の父ポール・セザンヌや、共に影響し合ったジョルジュ・ブラックなどの存在があったからこそ「キュビスム」は生まれたのです。しかし、その「キュビスム」を大成させたのはピカソと言って間違い無いでしょう。

どんな人間だった?

ピカソは幼少期からすでに美術の才能が見られました。13歳の時、画家になりたかった父親から絵の道具を全て渡され、父親は夢を諦めたそうです。16歳で展覧会の佳作を受賞し、20歳では既に「売れっ子画家」となっていました。

ピカソは絵の特徴がよく変わることで有名です。友人の死をきっかけに増えたとされている「青の時代」、恋多ければ「ばら色の時代」、そして「キュビスム」、「新古典主義」、「シュールレアリスム」とその変遷が見られます。特に新しい女性と出会うたびに作風が変わったようです。キャンバスに向かっている時の感情がそのまま絵に表れたのだと思われます。

作り上げた作品の多さも伝説級で、油絵だけで1万点以上、その他の作品を含めると計13万点を超えるとされています(!?)。ピカソの享年が91歳で、父親から画材道具を譲り受けた13歳まで遡って78年あったとして、1日1点作り上げたとしても(78年×365日=)2万8,470点。全然足りません。人間離れしています。

後で紹介しますが、ピカソが絵画の可能性を大きく切り拓いたとされる作品の「アヴィニョンの娘たち」も、100枚以上の習作(デッサン)を経て作成されました。才能にあぐらを掻くことなく、日々目の前の1枚1枚と向き合ってきたのでしょう。その時々の感情を絵画に投影する豊かな感性と技術、旧来の絵画を打ち破ろうとする野心、納得いくまで何度も練習をするひたむきさ…。それらにこそ、ピカソという画家の魅力があります。

代表作

アヴィニョンの娘たち

引用:Les Demoiselles d’Avignon – Wikipedia

100枚以上のデッサンを経て作成された絵。アヴィニョンとは、スペインのバルセロナにある通りの名前で、そこにある娼館の記憶から5人の裸婦が描かれたと言われています。

ピカソは本作に至るまで、娼婦と客、花やドクロなどを登場させ意味を持たせようとしていたそうですが、それらを排除して純粋な造形美を追求しました。

披露した当時は散々な評価で受け入れられず、10年以上アトリエに放って置かれてしまいますが、後に20世紀絵画の出発点を担う作品であると評価され、日目を見ることとなったのです。

泣く女

引用:The Weeping Woman – Wikipedia

モデルとなった女性は、写真家でありピカソの恋人であった「ドラ・マール」という女性です。ピカソ曰く「感情が激しく表に出る女」だったそうですが、ピカソもピカソで女性関係はお粗末だったそう。

当時ピカソには妻と子どもがおり、別で浮気していた女性がいるにも関わらずさらにうつつを抜かした先がドラ・マール。3番目の女だったということですね。そりゃ顔面グシャグシャになりながら泣くのもわかります。ピカソはそんな顔を見ながら「絵にしたい!」などと思ったのでしょうか。泣く愛人を前に慰めないどころか、もっと酷い顔を見たいとわざと怒らせるようなことをしなかったかと、想像してしまいます。

ピカソの生涯の恋愛遍歴については、結婚したのは2人だったそうですが、愛人は他に多くおり、彼女らが絵のモデルをつとめました。数多くの女性の影響があったからこそ、ピカソにとって新たな作品へのインスピレーションになったことは間違いなさそうです。

ゲルニカ

引用:ゲルニカ (絵画) – Wikipedia

1937年のスペイン内戦中のドイツ軍による、スペインの地方ゲルニカへの空爆を描いた巨大なモノクロ絵画です。破壊された村の悲劇をとおして、戦争の恐怖や人間の混乱、絶望、苦悩を表現しています。

『ゲルニカ』は「反戦」と同時に「民主主義」の象徴としても知られています。もともとスペインのマドリードではなく、ニューヨーク近代美術館に長く保管されていました。その理由は、ピカソ自身がスペイン内戦中の独裁体制を激しく批判しており、この政権が終わるまではスペインに戻すことを拒否したからです。

1981年、スペインの民主化移行期、ついに『ゲルニカ』はスペインに返還されました。この返却は、スペインの民主主義の達成を象徴する出来事とされています。そして現在も、『ゲルニカ』は「反戦」と「民主主義」の象徴として、世界中の人々に親しまれているのです。

おわりに

以上で、近代絵画が産んだ奇才、パブロ・ピカソの紹介を終わります。いかがでしたでしょうか。

本文のとおり、ピカソの絵が披露された当初は「流石にこれはちょっと…」となったことでしょう。しかし、20世紀美術の新たな出発点として再評価される機会があり、歴史に埋もれずに済みました。もしかしたら、ピカソのように奇抜すぎて受け入れられず、そのまま忘れ去られてしまった画家は思うよりずっと多いのかもしれません。そういう意味でピカソは、運も良かったとも言えます。

ただ、ピカソに確かな実力があったことも疑いようのない事実です。積み上げてきた経験、妥協しない熱意、斬新すぎる画法を生み出した野心と、それに追いついた時代。画家パブロ・ピカソの魅力は、調べれば調べるほどまだまだ見つかりそうなので、継続して学んでいこうと思います!

それでは、この辺で。最後まで読んでいただいてありがとうございました!

参考文献:井内舞子『教養として知っておきたい名画BEST100』(2021年 永岡書店)/ 佐藤晃子『名画のすごさが見える西洋絵画の鑑賞辞典』(2020年 永岡書店)/ 大野正人『失敗図鑑 すごい人ほどダメだった!』(2018年 文響社)

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